昭和50年07月15日 朝の御理解



 御理解  第18節
 「此方のことを、神、神と言うが、この方ばかりではない。、此処に参っておる人々が皆、神の氏子ぢゃ。生神とは、ここに神が生まれると言うことで、この方がおかげの受け始めである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 お道の信心を一言で言うと、総生神えの道だと言う風に言われます。皆が生神を目指して行くと言うのが信心だと言う訳です。だからお道の信心はまた言うと、御神徳を受けさして頂く為だけに、み教えがあると言うても良いのです。生神とは、私は御神徳が充実した、御神徳が体外体内に溢れて来る、それこそ、そこに生神の光を放つ程しのものを、私は生神の境地だと思います内外共に。
 そう言う信心を教祖は天地金乃神様から氏子に信心して、おかげを受けてくれよ、と言われる、おかげとは、そう言うおかげを願い、受けてくれよと言う事だと思うです。その言わば手掛かりとしてす、人間の難儀の様相と言うのは様々です。だからその様々な難儀を通して、金光大神の御取次を頂き、おかげを受けてそこに神様の御働きを感じとらせて貰う、そして神様の御心を体していく、その神様の御心をわかって行く、そのお心に添い奉る生き方を、精進し務めて行く事によって。
 生神への道を一歩一歩、生神へ近づいて行く事が出来るのがお道の信心なんです。ですから私はもう、このおかげを頂けばそげん生神様にならんでんよかと言うのじゃないです。確かに御神徳やらいらん、おかげさえ頂けばと言うのでなくて、本当に御神徳を頂く為の金光教と言うて良いです。この教えの全てがそうなんです。御神徳を頂ける為の御教えです。御神徳を受ける為には、この様な行き方、在り方にならねば、然もそれがです、その気になれば誰れでも頂ける道なのだから素晴らしいのです。
 とても人間生身を持っておる者が、とてもそげな事は出来ない、特殊な人だけしか出来ないと、言ったものでない所に、お道の信心の幅の広さと言うものを感じます。だからそう言う信心を日々頂いとっても、それに言はば、一心発起しなかったら駄目です。一生つまらんです、結局おかげ信心で終ってしまうです。金光教も御利益宗かと言う事になつて来るです。皆さん日々がね、御神徳を受けさせて頂く為の信心であり、修行は全てその為なのです。そうならなければいけないと思うですね。
 昨夜日田の共励会から、先生方が帰って参りましたのが、もう一時位だつたでしょうか、文男先生が私の所絵来て、そして私の足を揉みながら、まあ結局お話をする事は信心話です。これはもう他の者には話されん、文男さんだけにしか話されんと、言う話しも出て来る訳です。もうそうしとる内に二時半になりました。だから昨日私はお風呂に入ってから、もう三時半には此処に出て来ますから、お風呂に入ろうかなと思うて参りましたら、茶の間で若先生、秋永先生を中心に。
 若い方達が二三人で一生懸命で信心話しをしている所でした。又そこで暫く引っ掛ってまあ色々又私もそれに加わらして頂いたんですけれども、本当に今合楽で、皆さん一心に信心しておかげを受けておるけれども、金光教の信心合楽の信心は段々分って来たけど、金光様の信心それはもう合楽の信心は金光教の信心に間違いはないけれども、なら大きく金光教の信心とは、とそれは合楽を話せばそのまま。
 金光教だと言う訳にはいかんのです。なら今本部で本当に熱心に、熱心にと言うよりもまあ一つの金光教の革命が起きるのではなかろうかと思う様な討議が今行はれております。もう会議から会議、日本中の偉い先生方が集まられて今まで、25年間いや26年間ですかね、言うならば御取次成就信心生活運動と言う、運動が展開されて来た。それに皆が取り組んで来た様であるけれども。
 本当に取り組んで無かった証拠にその実が一つも上がってない。お取次ぎの働きが成就してないと言う事、言うならば信者は一つも増えていないと言う事、25年かかったけど、そこでここで始めて、この御取次成就信心生活運動の内容をです。改めて行かねばならんと言う運動が今起ころうとしておるです。その為に様々な検討があちらこちらで行われ研修もそこに焦点を於いてあっとります。ですから今本部の方で今教監が言い出しておられる所の例えばスローガンと言った様なものがです。
 皆さんの上にも良く解っておるだろうか、例えていうと自由にして創造的だ、と言った様な新しい言葉、しかも力のある言葉をもって、是からの金光教を牛耳って行こう、と言う働きが見えます。今までかつて聞いた事がない言葉ですね。自由にして然も創造的だと言う、私はこのみ教えを頂いた時早速その時の、御大祭にこの事をお祝詞の中に詠ませて頂ました。そしてその事を神様にお願いしました、そして段々お話しを頂いて行っておりますとです、私の頂いておる自由にして。
 創造的と言うのと教監が言っておられる自由にして創造的と言うのは、少し食い違いを感ずる。少しぢゃない根本的に違うのぢゃないかとすら思う様な節があるのです。そこで今教監が本部で言っとられる、その自由にして例えばですよ、その一事だけぢゃないですけれども、その一事だけでも教監の言われる、真意どこを言おうとしておられるのか、判らせようとしておられるのか、と言う事なら私共も検討しなければならないと言う事になる。だから今、本部ではどう言う事を言っておるのかと言うても。
 合楽の人逹は皆知らんです。それがどう言うものかと言う事を知らんのです。矢張りそう言う勉強が合楽には欠けとるなと言うて話した事でした。そんな事を話しながら、お風呂を頂いてこちらえ丁度三時半に出て参りましたら、心の中にそう言う思いがあったでしょう、そしたら御神前に出て、そんな事を、所詮金光教の信心によって本当に人が助かって行く、御取次成就信心生活運動が、本当に展開されて来る、そしてそれがおかげになって、来なければならないと言う事は。
 どう言う様な事だろうかと思はして頂いたらね、金光教の恥部と言う事を頂きました。金光教の恥部、恥かしい所、金光教の一番恥かしい所は何処かと言う事なんです。私はこのことをお願いさして貰いよりましたら、狸のねよう大きな庭になんか据えてある、あの焼き物のタヌキがね、こうやって一升徳利と通帳を持ってから、居る狸がありますね、あの狸がね、通帳と徳利でですね。自分の恥部をこう隠しとる所を頂いたです。あれは出しとかにゃいかんとですもんね。
 大きな金玉ぶら下げとる所が仲々味のある所です。それをその通帳と徳利を持っとるので前の方ば隠しておる。これが金光教がおかげを受けられなくなった、いうなら、金光教の信者が増えなくなった訳がここにあるのだと、言う事を頂きました。正しく金光教の恥部であります。そこでそんなら恥部とは、どんなであろうかと、神様にお願いさして頂きましたらね、蜜柑を頂いた。そして蜜柑の皮の所を見せて下さったんです。
 今の蜜柑と言えば夏蜜柑の様にしわがれて、汁気のないのがありましょうが、みかけは立派にしてるばってん。これが金光教の実体だと頂きました。私はその時に金光教の恥部はあゝこれだと思いました。何故かと言うと金光教の今の信心はね、どう云う事かと言うと、外部の所だけを。まあ人から笑われちゃならんとか、外から少しでもよう見られなけれいかん、金光様の信用だから人からよう見られにゃいかんと言うことだけに焦点をおいておると言う事なんです。
 だから例えば、本部あたりから、色々な大きな講演会などがありますから、皆が信心の無い人達でもお話し聞きに行きますよ、信心の無い人逹も誘われて、あゝ成程金光教ちゃ素晴らしいなあ、なら教会に参って見ようと言うて参る人はいくらかある訳です。所が中はシポシポ、いっちょん味が酢ゆうもなからにゃ、甘うもなかと言うのか、所詮金光教の実体だと私は思います。
 言うならどう言う事かというとです、人情教になってしまっておると言う事です。人情、人情を使う。人からあゝ思われちゃならん、こう思われちゃならん、少しでも金光教の信者らしゅう振る舞って、あゝ金光教の信者は立派だと思われる様にならにゃいかん。金光教の信者の中に少し学が出来たり、有名人があるとすぐそれを売り出そうとする。金光教にはこう言う有名な人が居る、と言うてその有名な人の信心を実際なら当たって見ると大した事はない。金光教は学者に弱いと言うわれておる。
 先日から信心の道を迷はず失わず、末の末まで教え伝えよと言う、御神訓に基づいて一口の御理解を一時の御祈念に頂きましたね。その時私は私の婆の信心の事をそのまま、こう言う信心が真の信心だと、信心とは真心の道と書いてあります。教典にはその言わば、その時に皆さんに聞いて頂きました様に、あのそれこそその異状なまでに、お土を大事にしました。それはもう天地の親神様の御体と信じ切っていた訳です。
 ですから勿論お土をけがす様な事はもう全然、唾を吐いたり小便させたりと言う事はもう全然させませんでした。神様の御体を汚しちゃならんと、言うならばそれが、天地の本当な事ですから、その天地の本当な事、天地の真をです。訳は解らんなりに頂いておったと言う事です。私の婆はだから私共が転んで膝坊主を打ち割ったりしますと、あゝ生神金光大神様と言うてから、もうそばでお土を傷口に塗ってくれました。
 その信念たるや本当に改めて、婆の素朴な信心ですけれども、素晴らしい所を頂いておったなあと思うんです。そしてなら毎晩御祈念をしますと、私共孫も婆しゃまの傍に座って御祈念をするです。それこそ大祓いも覚えておりませんでしたから、天津祝詞を繰り返し々唱えました。天津祝詞だけを、そして御祈念に入りますと、昔の人逹は言葉に出してお願いをするのです。その祈りの中にです。
 どうぞ大坪總一郎が、大坪大作が、大坪スマ代が、私共三人の名前を繰り返し繰り返し言うてはです、どうぞ神様あなたのお役に立つ様な氏子にお取立て下さいと言うのが、婆の願いでした。私共が願っている事はどう言う事だろうか、もうそれこそ神様のお心を動かさん訳にはいけん様な願いを、訳は解らんなりにしておったと言う事です。訳は解らんと言うか、訳が判っとっちゃ仕方がないですね。どうぞ大坪総一郎が大臣になります様にとかね、偉い人になります様にじゃなかったんです。
 神様のお喜び頂ける氏子にお育て下さいです。お取立て下さい、神様の言うなら痒かとこをそのまま掻く様な願いです。どうぞ息子が試験に出来ますごと、どうぞ息子が成功しますごと、試験が出来る事が果たして神の気感に適ふ事かどうか、解らんのに、そこんところも確かめずに、どうぞあゝ成ります様に、こうなります様にと言う様なケチな願いではなかったと言う事です。
 言うならばそう言う信心が、今の金光教には欠けておると言う事です。私は真の道と言う事をです。婆は訳が解らんなりにお土を大切にすると言う事で、天地の真と婆の真が通い合うたと思うです。そして願う事はです、孫逹がどうぞ神様にお喜び頂ける様な人間にお取立て頂きたい、お育て頂きたいと言う願いこそ、神の願いであったと言う事です。そこに私は、末の末まで教え伝えよと、いろんな理屈を言うて聞かせて教えた所で、中々その信心を継承しょうとはせんけれども。
 その婆の信心に、両親がついて来る様になり、その両親の信心をまた私共が、受け継がせて頂くと言う、もう理屈抜きにして段々おかげを頂いた、そして私の時代になったらもうこれは絶対のもの、なら合楽でこう言う沢山の人の助かる様な道にまでつながって来たのです。末の末まで教え伝えて行くと言うことは、そう言う八の字の用に、末広がりの様にです。広がって行く信心でなければならんのにも係らずです。
 なら御取次成就信心生活運動と言う事は素晴らしい事なんです、けれどもそう言う運動が展開されておるけれども、その運動の焦点が間違っておったと気が付いて、25年振りに気が付いておられる様な気がするのです。そしてなら今日、言われておるところの、自由にして創造的と言った様な、素晴らしい言葉ですから、それを私は私なりに受け止めて、言うなら自由にして創造的な信心を今、合楽こそ、そう言う行き方をしておるんだと思い込んでおったんです。
 合楽では例えば信心の中には様々な信心があります。大変人が助かっている教会があります。けれどもその教会長先生はお話をなさらないけれども、病人が参って来ると掌の平をこうやって当てなさる、そうすると病人がどんどん助かった、そして大変な御比礼を頂いておられると言う教会もあります。そして御本部に対しても大変な御用も出来ておられます。それかと言って今度は、あんたの所は霊様の事ばっかり言うて人がどんどん助かっとると言う教会もあります。
 合楽の様にいわゆる御理解一本で助かっておる教会もあります。ですからね、そげな事は金光教的でないと言った様な事ではない、それも矢張り金光大神の信心の一部だと言う頂き方をしなければね、それを決め付けて、そげなとは金光教的ぢゃないと言うてそれを取り上げない所に私は金光教の、私は恥部を感じます。本当に例えば霊様を拝みながらでも、金光様と言うて掌を当て、撫でたら病人が治ると言う程しの基がどこにあるかと言う事を、私は追求すべきだと思います。
 そしてそれも矢張り金光大神の信心の一部だと、頂く所に大きくなって来る。これが金光教だと言うので、それこそ盆栽の様な金光教が出来上がった訳です。箱庭の様な金光教になってしまったのです。成程見かけはよか、枝ぶりの悪かとはつみ折り、枝振りはこうやって曲げる。そげんしてからでも立派な金光教を作ろうと精進した事は良いけれども、これから先は太られんと言う様に、25年間全然太っていないと言う事実がです、私は盆栽的金光教であり、箱庭的金光教になしてしまった。
 それに気が付いたのですから、気が付いたのですから大きくなる為にはまず、なら金光教がなぜ助からなくなったかと言う、その言うなら金光教の恥部とも言うところを気付かせて頂いてです、人情教に終っちゃならん、人がどげん言おうが、悪く言おうが、昨日の御理解の一時の御祈念にも申しとりますね、人が笑はうが人から悪口を言われ様が、叩かれようが全ての事柄を、神様の働きとして頂いて行くと言う事。人から笑われちゃならんから、ここだけは立派にしとくと言うものでなくてです。
 何処迄も心行一つと言う事を申しとりますね。帰りに塗板をもう一通り見て下さい。書いてあります。それは神様を信ずればこそであり、神様を信ずればなりであります。信ずるから人から馬鹿と言われても、阿呆と言われてもそうなのであります。そこで私は金光教の恥部と言われる、蜜柑の皮の所だけを大事にして、中身はしわがれて、あゝ側が立派ぢゃけん中に入ってお願いしてみたところが助からんと言う事になって来た。それで誰でん一度は参るばってん二度と参らんごとなって来た。
 それを合楽の場合で言うと、側たんからはいろんな批判がある訳です。言うならぐさみかんの様なものぢゃないでしょうか。ちょいと合楽ばっかりは了見には及ばんと言う風に、最近はもうそう言う悪口がどんどん入って来るのです。夕べ若先生が言いよりました。もう僕が一番哀れと。なしやと言うたら。とにかく金光教の外交をやっとる訳ですから。ね、言うなら外回りをやっとるからもう、とにかく私の悪口を言われる事は、結局若先生が痛い訳です。
 だから僕は大祭でん何でん光昭か誰か他の弟達どんばやろうかと、昨日言いますもん。そしたら秋永先生が、そげな事がありますもんか、それがあなたの修行ぢゃけんと言う様に、外部から非常にそう言う悪評なんです。もう合楽は間違っとる様に言う訳です。けれども本当に助かりたいの一念で、一度皮をむいて中に入って見ると、それは何ともいえん味わいに、もうびっくりして、合楽から離れられん様になってしまう訳です。助かる訳です。事実に、だからそう言う助かる事実をね。
 助かる事実を今の金光教の大体の方達はです。そこに目を覆うておる様な感じが致します。出来るだけ合楽の事を言うなと言う様な雰囲気があると言う事です。本当に私はその皮たんだけぢゃない、他所の風評だけぢゃない、そこでなら他所の先生方が、なら塩梅見にやって来るわけですよ、そして一回、二回は批判的です誰でも、そして私に説教を言われる先生もあるです。けど三辺と通うて来ると、もう本当に合楽の虜になってしまうです。本当な事がわかって来るからです。
 愈々頂く気になったら味が良い事が解るからです。そこで合楽はもうこれで良いと言う事ではありませんけれども。側から見ても立派な蜜柑、中も美味しいと言う事になって行かねばならんけれども、それは矢張り過程です。なら金光教の在り方も過程です、だからそう言うものがね、一つになってこうやってぴったり合わなければいかんです。私が言うておる事、なら本部で言われとる事が、合わなきゃいかん、言うなら口と口とが合わなきゃいかん。言うなら男と女の交わりの事を言うならです。
 ぴったとこう合うのが交わりです。所がこげんずれとる訳です。第一口と口が合うとらんけん接吻も出来んなおる。こうこうやってしよるばってん届かんなおる(笑い声)へそとへそとが合うとらん、肝心の所は尚合うとらんこれでね、よいものが生れる事は絶対ないです。言うておる事、言うておる事がこうやつて合わにや、腹と腹とが合わにや、そして肝心のところがぴったり合わにや、そこに素晴らしい、言うならば、それこそ呑む程に、酔う程にと、言う様な心の状態が生れて来るのです。
 狸が言うならお酒を買いに行きよると言うてもです、本当にその御酒を買うて来て飲まにゃいかんです。そればってん放されんなおる、前の方に手をこうやっておるから。だから恥部と言うことですら気付いてなかろうかとさえ思うのです。金光教では。言うなら教監あたりの言われる、言うならばです。斬新な行き方としてです、自由にして創造的だと言われるのと、私がそれを受けとめて、ああこれは素晴らしいと言うて、合楽にぴったりと思うて頂いた事が、食い違うておると言う事です。
 だから是を一つにする働きがね、是からの例えば金光教の言うなら大活動と言うか、大革命とでも申しましょうか、そう言う今、下拵え的準備がなされている時で御座いますけれども、そう言う所に合楽が一役も二役も買はせて頂きたいと、思うのですけれども、さあ私が宣伝してまわった所ででけん。最近もうそれこそ合楽を、もう先日から手紙が参りました。或る先生なんかはもう二度目三度目です。もう私は神秘的なことは信用しないと言う金光様の先生です。
 所が合楽におかげ頂きよったら、御神夢と思わにゃおられん様なお夢を頂く様になったのです。それで御神夢をここにお届けがある、それに御返事を頂く様になったら、成程なと合点がいく様になって今神愛会に度々通うて来られる様になった。大変遠い所からと言う様に本当に合楽の中身と言うものをです。一つおかげを頂いて行かなきゃならん、今日の言うならば、皆もこの通りにおかげを受けられる。とか生神えの道とかと言う事はです、側たんは言うならばです。
 どんなに見かけが良かっても、どんなに神様のごとしとったっちゃです。人がたすからんなら神様とは言うてくれません。側たんな悪かったっちゃぐざ々蜜柑であってもです、実際にたすかりや、あなたのおかげで助かったと人が拝む様になります。だからそれで良いと言う事はないですけれども、私は生神とは合楽の行き方こそ、生神への道だと言う風に信じております。
 だから皆さんは、そう言う生神への道をです、どう言う行き方にならせて頂けば、教祖が願っておられる、天地金乃神が願うておられる、願いに応えて行かれるかと云うところをしょうてんにして、生神への道をいよいよ、忠実に守らせて頂いて、それこそ先ずは、我と我心が拝めれる様な、心の状態を作って行く事、問題は人から笑われても良い、人からそう言う様な事でです。
 人からどうか言うわれたら、それでぐらっとする様な事のない自分の心の中の有難いと言うもの一つに縋ってこの有難いものを愈々育てて行くと言う行き方、それこそ人から馬鹿と言われても笑はれても或る場合は叩かれてもです。神様を信ずればこそ、言うなら親先生の言われる事を信ずればこそという生き方こそ、生神への道の精進だと思います。
   どうぞ。